杉井とアニメーション史"

■1940年 誕生 静岡県沼津に生まれる。
空襲のため上京。父親は板前。小さな頃から画を書くのが好きだった。

1945 敗戦

■1951年 11歳 ディズニーの『バンビ』を観てアニメーションをやろうと決心。
中学時は漫画家に弟子入りして漫画を書いていた。

1953 テレビ放送開始

■1958年 18歳 東映動画入社。
東映が1956年に設立したアニメスタジオで、ディズニーの動きやシステムを取り入れた。宮崎駿、高畑勲を育てたカリスマアニメーター・大塚康生の指導のもと、日本最初のカラー長編アニメーション映画『白蛇伝』で初めて動画に参加。

白蛇伝

■1961年 21歳 手塚治虫が立ち上げた虫プロに参加。
虫プロは手塚治虫自らの原作マンガをTVアニメ化するために立ち上げたプロダクションである。TVアニメ制作費を低く抑え他社からの参入を防ごうとするも、後に批判を招く過酷な労働環境を作っていくことになる。

■1962年 22歳 手塚治虫が厳しいスケジュールの為に考えだした「リミテッドアニメーション」(動きが少ないアニメーション)。
東映動画が目指すディズニー的な滑らかな動きのフルアニメーションとは正反対だった。最初かなり戸惑いをおぼえるが、作品のおもしろさに驚く。以後杉井は、大塚康生と手塚治虫を師としながらも、自分のアニメーションを探し続けることになる。

鉄腕アトム

■1963年 23歳 「鉄腕アトム」第六話 『電光人間の巻』を初監督。
それまで1分強が限度だった日本で、初の30分テレビアニメ「鉄腕アトム」は大ヒット。アニメ制作会社の多数参入、TVアニメの量産により、虫プロも厳しい競争を強いられるようになる。

1964 東京オリンピック

■1967年 27歳 虫プロから独立。アートフレッシュを設立。
労働環境の苛酷さから虫プロでは後進を育てることが出来ないと判断、虫プロから独立し、独立プロとして虫プロ作品に関わる。「悟空の大冒険」で総監督をつとめる。手塚治虫の原作をかなり脚色してほぼオリジナルに。キャラクターを一新し、シナリオは井上ひさし等がアイディアを持ち寄り、話もかなりスラップスティックな内容で、ナンセンスに徹した作りになっている。しかし裏番組に飲まれて視聴率が激減。スポンサーと激突し、杉井自ら総監督の身をひく。作品に妥協しない姿勢が目立つようになる。映画『千夜一夜物語』(山本暎一監督 虫プロ製作)。大人向けのアニメーションとして製作され、手塚治虫のプロデュース・構成・脚本により1969年劇場公開。杉井は洞窟のパーティーシーン、ラブシーンの作画を担当する。杉井担当のシーンは、他のシーンで細かく指示を出していた手塚も「全て杉井に任せる」とした。

千夜一夜物語
どろろ
1969 ウッドストック・フェスティバル

■1969年 29歳 「どろろ」総監督。グループ・タックの設立に参加。
手塚治虫原作のダークな戦国マンガを原作に忠実にアニメ化。「人を斬ることは気持ちの悪いことだ」という信念のもと過激な描写を容赦なく描くが、日曜の7時という時間が考慮されスポンサーから横やりが入り、手塚自身も原作の方向を転換。それに異を唱えて総監督を降りることになる。 虫プロの音響スタッフだった田代敦巳らとともにグループ・タックを設立する。

1970 大阪万博
1972 沖縄が日本復帰
悲しみのベラドンナ

■1973年 33歳 映画『哀しみのベラドンナ』(山本暎一監督 虫プロ製作)。
『千夜一夜物語』『クレオパトラ』に続き虫プロが大人向けのアニメーションとして製作した。コラージュ的な手法が用いられ、文芸色の強いストーリー、耽美的なエロティシズムに彩られている。杉井は作画監督をつとめ、エロティックな表現方法を確立。同時にアニメーターとしての実力を知らしめた。
虫プロ倒産。TVアニメ制作による赤字を埋める目的で製作したはずの映画が、興業がふるわず社員100人を抱える虫プロは倒産を余儀なくされる。手塚治虫自身が退いた虫プロは倒産後、当時労働組合の代表だった伊藤叡によって再度会社として更正。アニメ制作と散逸した手塚アニメ作品を集め著作権の管理を行う。一方、虫プロが日本のアニメーション界に残した功績は大きい。ここから多くの才能あるスタッフたちが巣立っていった。監督としては山本暎一、りんたろう、出崎統、川尻善昭、高橋良輔、富野由悠季、安彦良和、吉川惣司など。アニメーターなどの人材も多い。手塚治虫は虫プロ退職後に新たにアニメ制作、漫画創作活動の拠点である手塚プロダクションを設立している。

■1974年 34歳 劇場映画初監督『ミュージカルファンタジィ ジャックと豆の木』(グループ・タック製作)。
ミュージカル仕立てのストーリー、そしてアニメーター1人が1キャラクターを個別に作画する「キャラクターシステム」を導入した画期的な映画であり、杉井の理想に近い製作体制だったが、資金難のためスタッフが脱落していった。興行成績は良かったが、杉井自身が作品の出来にかなりの不満を持つ。
念願の平家物語を企画しようとするが、自分のアニメーションの限界にぶつかる。家庭も仕事も捨て、アニメをやめる覚悟で「かすみを食って生きていく」旅に出る。旅は約10年に及んだ。

ジャックと豆の木
1972 旅

■1983年 43歳 復帰。「ナイン」に続き「タッチ」を監督。
旅先で読んだあだち充の漫画「ナイン」が印象に残る。独特な情感をマンガで表現していることに興味を持っていた杉井に、知り合いのプロデューサーからTVアニメ化の話が持ち込まれ、監督を了承。復帰を本格的に考えてはいなかった。あだちの世界観を極端な間、背景のみの画など、従来の作りとは真逆の手法で表現。
続いて「タッチ」も監督。ゆっくりとしたカメラの動き“じわパン”、“じわ寄り”と呼ばれる手法を確立、アニメが情感を描けることを証明する。TVもアニメも大ヒットを記録する。
一方で、宮沢賢治原作『銀河鉄道の夜』の企画が持ち込まれる。一度は頓挫したものの人間でなく、ますむらひろしのマンガにヒントを得て、猫のキャラクターとして抽象化することで再び企画が動き始める。

■1985年 45歳 『宮沢賢治 銀河鉄道の夜』公開、ネガティブな前評判を覆す大ヒット。
ファンタスティックな美しいイメージ、深い哲学的思想を持つ賢治文学の集大成である原作をかなり忠実に映像化。不思議な汽車で旅をし、出会っては別れる…主人公ジョバンニには杉井の長い放浪の記憶が刻まれている。映画評論家・淀川長治は「このアニメを観るなり書きたいと名のり出た。自分から原稿を書きたいと頼んだのはヴィスコンティーの『家族の肖像』とこれだけである」との賛辞を送る。映画は難解、宗教的、観念的というネガティブな前評判を覆す大ヒットを記録。

銀河鉄道の夜

■1987年 47歳 『紫式部 源氏物語』公開。以後TVアニメの総監督、監修多数。
『銀河鉄道の夜』と同じスタッフで源氏物語をアニメ化。斬新なキャラクター設定、都や建物の忠実な再現、とくに京の都の大俯瞰は圧巻である。女性の紫式部が光源氏であるという設定による“性のねじれ“を登場人物のキャラクターに反映させている。以後TVアニメの総監督、監修多数。

源氏物語
1991 バブル崩壊

■2005年 65歳 『あらしのよるに』公開。
グループ・タック製作。07年、第30回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞受賞。

2008 リーマン・ショック

■2008年 68歳 『グスコーブドリの伝記』製作開始。
『銀河鉄道の夜』と同じ宮沢賢治原作。杉井自身も力のはいる原作者で、グループタックの製作となるはずだった。しかしプロデューサーであり代表の田代敦巳氏が死去、多額の負債を抱え、グループタック倒産。一時製作中止寸前に追いつめられる。しかし翌2011年夏に手塚プロダクション製作として再スタート。

2011 東日本大震災

■2012年 71歳 監督最新作と杉井を映したドキュメンタリー公開。
監督最新作公開『グスコーブドリの伝記』7月7日、アニメーション監督・杉井を主役にしたドキュメンタリー『アニメ師・杉井ギサブロー』7月28日、それぞれ公開。